2011年3月11日14時46分18秒。
私は名古屋の楽器店でのレッスンに向かう途中、名古屋高速の高架下を走行していました。
信号待ちで止まった瞬間、船に乗ったように大きく横揺れする車。
「この道路こんなに揺れたっけ?」
テレビをつけながら走っていたので、それがすぐに地震の揺れだったことはわかりました。
楽器店に着くまで30分ほど。
到着しても、画面越しに流れる最新の状況を前に、車を降りることができませんでした。
3.11私たちは決して忘れない
私の住んでいる場所は、いつか大きな地震が来ると言われ続けている地域です。
5年以内に〇%、30年以内に・・・
阪神大震災や東日本大震災の日が訪れるたびに、地元テレビのチャンネルではこの地方に来るであろう地震に関する特集が流れます。
でも、一向に起こらない。
その間にも東北や九州など、まるで東海地方を避けるかのように次々と大きな地震が起こっています。
3.11が起こった時だって、それよりずいぶん前から「東海地方は危ない」と言われていたのに・・・
平和なこの地域に住んでいることを言い訳にしてはいけませんが、私の普段の防災意識はとても低いと自覚しています。
ただ3.11が起こった時、遠く離れた愛知県で感じた大きくゆったりとした揺れは、今でも鮮明に覚えています。
そして、その後に次々とテレビで流れる悲惨な状況も。
「この感覚、記憶にある。」
自分の中で、子どもの頃アメリカの同時多発テロのLIVE映像を観ていたときの感覚と重なったんです。
映画だと思って観ていた9.11
アメリカ同時多発テロが起きた日。
父がリビングでテレビを観ていました。
当時父は洋画や海外のドラマをよく観ていたので、9.11のLIVE映像も映画だと思っていたんです。
「これ映画?」
と尋ねた記憶もあります。
父は違うといったはずですが、私の中で現実にありえないと判断されたあの映像は、勝手に映画だろうと頭の中で処理されました。
しばらくたって、今観ている番組が日本のニュースっぽいと気づいた私。
そこで初めて、アメリカで今起こっていることだと認識したんです。
テロだと認識したのはそのまた後ですが・・・
あまりに現実離れした映像に、疑いもなく映画だと思った子どもの頃の私。
それと似た感覚を味わったのが、3.11でした。
今この瞬間の出来事とは思えなかった3.11
「戦争は憎むべき相手がいるけれど、災害は天の神様の仕業だから怒りをどこへも向けられない。」
被災した方がテレビで語っていた言葉です。
天の神様の仕業を、私はテレビ越しで見ただけ。
当時流れる映像を観て思ったのは
「これは現実なの?」
9.11を本気で映画と勘違いしていた子どもの頃とは違い、間違いなく今の宮城、福島の状況であることは理解できていました。
それでも、津波の押し寄せる様子や原発から火柱が上がる映像は、あまりに現実離れしたもの。
日本で起こっていることだと頭で理解できても、心が追いかず・・・
それからしばらくは、テレビもほとんどのチャンネルが震災関連の映像。
原発の様子や、避難所、災害ボランティアの活動の様子が伝えられるのを、私は眺めていることしかできませんでした。
「自分の住んでいる地域でなくてよかった」
酷い話だけれど、心の片隅でこんな風に思ってしまっている自分もいました。
そんな何の役にも立てなかった自分に、数年後、ほんの少しだけ復興に協力できるチャンスがやってきたのです。
チャリティーコンサートで被災地へ
2016年9月。
所属していた地元の音楽家団体が、気仙沼の仮設住宅でのコンサートを企画、開催することに。
実は、東北へのチャリティーコンサートを兼ねた旅行を実施したのは前年に続いて2回目。
私は2回目で初めて参加させていただくことになりました。
津波に流された街を目の当たりにするのはもちろん初めて。
仲良しの後輩も一緒だったので軽いノリでお返事をして参加しました。
私が行ったのは2016年、震災が起こったのは2011年。
5年の月日が流れ、毎日報道されることもなくなった東北の街。
正直5年も経っているから、もう元通りの生活を送られているのではないか。
安易にそう考えていたんです。
「東北でお金を使おう!」向かった演奏旅行
メインは、仮設住宅でのチャリティーコンサート。
裏テーマは「お店で食べて飲んで、東北でお金をたくさん使おう!」でした。
団体の理事長がおっしゃいました。
「大変だね、辛いねと同情するより、実際に地元のものを消費して東北の経済に少しでも貢献しよう。」
確かに!
当時の状況を語り継いだり、被災者の気持ちに寄り添うことは大切です。
でも、建物、道路など、物質的な部分での改善が無ければ復興は進みません。
そして、復興にはお金がかかる・・・
気持ちを寄せるだけでは解決しない問題には、やはりお金であったり物質的な支援が必要。
それができるいい機会だと思って、チャリティーの演奏の準備もしながら東北のグルメやお買い物も楽しみにしていました。
仮設住宅での最後のコンサート
コンサートを行ったのは、気仙沼の仮設住宅のコミュニティセンターのような場所。
私たち以外にも、いろいろな団体や個人が被災者を励まそうと訪れているようでした。
ご高齢の方、独り世帯が多く、この場所に集まってみんなで集まってお話したりレクリエーションを行うことが心の支えとなっている、そうお話してくださいましたが
この時、私たちが訪問したこの仮設住宅は既に取り壊しが決定済み。
震災後、更地になった土地を整備して新しく建てられたマンションに引っ越す予定の方が多く
「マンションになっちゃったら、こんな風に集まれないねぇ。」
きれいな場所へ移ることより、慣れない場所で寂しさを感じながら過ごすことへの不安が大きいようでした。
そんな皆さんへ私たちが送る2回目の、そして最後のコンサート。
ピアノ、声楽、二胡、リコーダー・・・
楽器の音色を心地よさそうに聴いてくださり、歌声には涙する方もいらっしゃいました。
演奏後は昼食のお弁当を食べながら談笑。
つらい経験と記憶を抱えながらも、皆さん本当に明るくて✨
小さなことでくよくよしている自分が恥ずかしくなりました。
今仮設住宅からマンションに移られて、寂しい思いをしていないでしょうか。
あの頃笑いあっていた皆さんとは、今も仲良く過ごしていますか?
「自分がもし家を失い独りになったとしたら、こんなにも強く生きていけるだろうか。」
自分にはそんな自信がありません。
本当に、被災者の皆さんは強かった。
記憶に残っているのはショベルカーと更地
コンサートの後は「奇跡の一本松」など、震災跡地をめぐりました。
震災を受けて運行できなくなっていた三陸鉄道のレール上を走るバスに乗ったり
震災の後、ボロボロになったままかろうじて残った建物を遠くから眺めたり・・・
印象的な場所はたくさんあったんです。
でも私の記憶に一番残っているのは、5年たっても更地のまま、ショベルカーがぽつんと置かれた気仙沼漁港近くの風景。
やっとがれきが片付いて、マンションを建てるために整備されている途中の広大な土地。
「自然災害で失われた日常は、たった5年でもとに戻るようなものではなかったんっだ」
被災者の皆さんにとっての5年間は、復興が進まない歯がゆさと虚しさ、それでも強く前に進んでいかなければという思いの葛藤の日々だったのだと感じました。
そして「かわいそう、辛いでしょうに・・・」と無意識のうちに他人事ととらえていた自分に気付かされたのです。
忘れない・・・3.11のお話でした
2016年に行ったときは、仮設住宅からマンションへの移行が進みつつあるところで、まだ更地が多かった気仙沼の街。
屋台村があって、店舗を失った飲食店が集まって支えあっていた街。
今はどうなっているのだろう。
もう一度行きたいと思いながらもなかなか行けずにいた東北地方、国内の移動が自由になったら行こう。
人間は自然には勝てません。
できることは
何か起こった時、他人事だと思わず何かしてみること。
自分の頭で考えて、自分にできる小さなことをしてみること。
自分のことで精いっぱいなのは今も昔も変わらない。
自分の生活を守りたいし、自分の家族さえ元気でいてくれたらと考えてしまう。
でもそれを前提として、そこからちょっとはみ出す余裕を作って、誰かのためにその力を使える自分になりたい。
私は、全てを捧げる聖人にはなれません。
けれど、少しでも誰かの役に立つ努力ができる人間になります!
決意表明になってしまいましたが、11年目の3月11日を迎えて思う私の素直な気持ちでした。
ご清覧ありがとうございました♬
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